06月16日: 古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その4
カテゴリー: 街「下北沢ウェブ【下北沢の古地図2】」明治・大正時代
投稿者: ohori
古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その4・1920年代の地図
東京府全図

大正(1920年)頃の「東京府全圖」から下北沢を中心に拡大
大江印刷所版本大正9年7月1日訂正4版の東京府全図です(内容年代は大正9年)。
マクロなイメージの地図で、画像には、山手線、京王線、玉川線(田園都市線)といった鉄道路線のほか、バス路線図が描かれていると思われます。地名としては、下北沢、代田、代田橋、松原、赤堤、若林、世田ケ谷、三軒茶屋といった良くみられる名称のほか、経堂在家、松澤村といった記載も確認できます。
最新模範東京市全図

大正(1923年頃)の「最新模範東京市全圖」から下北沢の地名を探す
文明堂書店版本の東京市全図です(内容年代は大正12年)。
全図といっても皇居を中心としたエリアの地図となっており、荏原郡・世田谷村の一部がわすかに確認できる程度です。
画像からは、世田ヶ谷村に、下北沢、下北沢西、新屋敷、下山谷といった地名を確認できます(左上の一部)。山谷とつく地名がこの頃の地図に散見されるようになりました。また、新屋敷という地名も定着したようです。
大東京市郊外地図調査番地入

大正(1925年頃)の「大東京市郊外地圖最新調査番地入交通明細(表)」から世田谷区・下北沢付近を拡大
合資会社雄文館版本訂正第3版の東京市郊外地図です(内容年代は大正14年)。
関東大震災(1923年)以後の地図になります。画像からは、下北澤と記された周辺に、下北澤本村、下北澤西山谷、下山谷、薩摩、新屋敷といった記載がみられます(薩摩という地名が登場してきました)。
このほか、南笹塚、大山谷、大原、世田ヶ谷飛地、羽根木、松原、代田、中原、羽根木通、飛羽根木、代田本村、若林、若林本村などが確認できます。
この地図を見る限り、現在の代田1丁目あたりに市街地があったようです。また、青紫の線で用水などの沢を示しています。後の環七になる道も南北に描かれています。
大東京地図

大正(1925年頃)の「最新大東亰地図(西部)」から下北沢エリアを拡大
株式会社精美堂版本其1城西の大東京地図です(内容年代は大正14年)。
画像からは、下北沢付近に、下北澤、大山谷、薩摩、新屋敷、(下北沢)西山谷、下北沢本村、代田付近に、大原、羽根木、中原、飛羽根木、代田本村、三軒屋、若林付近に、若林本村、下山谷、(若林)西山谷などの地名を確認できます。
赤点破線は後の小田急線となるルートを示しているように思われます。
大正十四年東京全図

大正(1925年頃)の「大正十四年東京全図」から世田谷区の下北沢エリアを拡大
版本不明(大正14年発行)の東京全図です(内容年代は大正14年)。
この前(大東京地図)の画像と年代も変らないことから、ほぼ同様の内容を確認できます。こちらの画像のほうが大きなエリアを表しています。
画像からは、下北沢、大山谷、薩摩、新屋敷、西山谷、下北沢本村、羽根木、飛羽根木、代田、代田本村、若林、下山谷、若林本村、三軒屋、太子堂本村などの地名を確認できます。
ここでも、赤点破線は後の小田急線のルートを示していると思われます。
なお、出典の地図は国際日本文化研究センタ−所蔵である。
東京府全図
大正(1920年)頃の「東京府全圖」から下北沢を中心に拡大
大江印刷所版本大正9年7月1日訂正4版の東京府全図です(内容年代は大正9年)。
マクロなイメージの地図で、画像には、山手線、京王線、玉川線(田園都市線)といった鉄道路線のほか、バス路線図が描かれていると思われます。地名としては、下北沢、代田、代田橋、松原、赤堤、若林、世田ケ谷、三軒茶屋といった良くみられる名称のほか、経堂在家、松澤村といった記載も確認できます。
最新模範東京市全図
大正(1923年頃)の「最新模範東京市全圖」から下北沢の地名を探す
文明堂書店版本の東京市全図です(内容年代は大正12年)。
全図といっても皇居を中心としたエリアの地図となっており、荏原郡・世田谷村の一部がわすかに確認できる程度です。
画像からは、世田ヶ谷村に、下北沢、下北沢西、新屋敷、下山谷といった地名を確認できます(左上の一部)。山谷とつく地名がこの頃の地図に散見されるようになりました。また、新屋敷という地名も定着したようです。
大東京市郊外地図調査番地入
大正(1925年頃)の「大東京市郊外地圖最新調査番地入交通明細(表)」から世田谷区・下北沢付近を拡大
合資会社雄文館版本訂正第3版の東京市郊外地図です(内容年代は大正14年)。
関東大震災(1923年)以後の地図になります。画像からは、下北澤と記された周辺に、下北澤本村、下北澤西山谷、下山谷、薩摩、新屋敷といった記載がみられます(薩摩という地名が登場してきました)。
このほか、南笹塚、大山谷、大原、世田ヶ谷飛地、羽根木、松原、代田、中原、羽根木通、飛羽根木、代田本村、若林、若林本村などが確認できます。
この地図を見る限り、現在の代田1丁目あたりに市街地があったようです。また、青紫の線で用水などの沢を示しています。後の環七になる道も南北に描かれています。
大東京地図
大正(1925年頃)の「最新大東亰地図(西部)」から下北沢エリアを拡大
株式会社精美堂版本其1城西の大東京地図です(内容年代は大正14年)。
画像からは、下北沢付近に、下北澤、大山谷、薩摩、新屋敷、(下北沢)西山谷、下北沢本村、代田付近に、大原、羽根木、中原、飛羽根木、代田本村、三軒屋、若林付近に、若林本村、下山谷、(若林)西山谷などの地名を確認できます。
赤点破線は後の小田急線となるルートを示しているように思われます。
大正十四年東京全図
大正(1925年頃)の「大正十四年東京全図」から世田谷区の下北沢エリアを拡大
版本不明(大正14年発行)の東京全図です(内容年代は大正14年)。
この前(大東京地図)の画像と年代も変らないことから、ほぼ同様の内容を確認できます。こちらの画像のほうが大きなエリアを表しています。
画像からは、下北沢、大山谷、薩摩、新屋敷、西山谷、下北沢本村、羽根木、飛羽根木、代田、代田本村、若林、下山谷、若林本村、三軒屋、太子堂本村などの地名を確認できます。
ここでも、赤点破線は後の小田急線のルートを示していると思われます。
なお、出典の地図は国際日本文化研究センタ−所蔵である。
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06月15日: 古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その3
カテゴリー: 街「下北沢ウェブ【下北沢の古地図2】」明治・大正時代
投稿者: ohori
古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その3・1910年代の地図
東京郊外地図

大正(1913年)頃の「東京郊外地圖」から下北澤と周辺を拡大
博愛館版本大正2年3版の東京郊外地図です(内容年代は大正2年)。
画像はだいぶ地図らしくなってきており、下北沢村、赤堤村、若林村などお馴染みの地名のほか、松沢村の地名も確認できます。代田村は羽根木にあたる飛地に記載がみられ、現在の世田谷代田駅にあたる箇所には、中原と記されています。そのほか、大原、新屋敷、下北沢西山谷といったこれまで確認できなかった地名を読み取れます。また、北沢川に宮前橋という橋のランドマークがあります。神社や寺院だけでなく学校や牛乳店の記載もあります。
東京市及附近番地入地図

大正(1916年)頃の「東京市及附近番地入地圖」から世田ヶ谷村大字下北澤周辺を拡大
丸善好文館版本大正5年10月2日訂正8版の東京市付近番地入地図です(内容年代は大正5年)。
画像からは、世田谷村大字下北沢が読み取れ、当時はまだ下北沢という地名があったことが確認できます。
このほか、現在の羽根木は世田谷村字羽根木、字羽根木通、字飛羽根木と、世田谷村大字代田(現在の新代田駅付近も含む)に分かれていたことが判ります(羽根木という地名がようやく確認でき、代田橋の北側にも羽根木の文字が確認できます)。
世田谷代田駅あたりは代田でなく世田谷村字中原という記載になっています。
茶沢通りのあたりには字新屋敷、東北沢駅あたりには字大山谷、池ノ上駅あたりには字下山谷、代沢3丁目あたりには字下代田、庚申塚から小田急線の地蔵踏切をぬけ環七に続く道あたりには字下北沢西山谷、代沢4丁目あたりには字中下の記載が読み取れます。
代田という地名は、代田本村あたり(現在の若林のやや北側、代田3町目付近)に字代田の記載が読み取れます。
東京府全図・東京府里程図

大正(1916年)頃の「大正(1916年)頃の「東京府全圖、東京府里程圖」から下北沢・三軒茶屋周辺を拡大
雄文館版本大正5年6月20日第26版の東京府全図です(内容年代は大正5年)。
電車とバスの路線を示した地図です。山手線・中央線のほか、現在の京王線(京王電気軌道1913年開通)と田園都市線(玉川電気鉄道1907年開通)が描かれています。他の線は東急世田谷線が未開通ですのでバス路線を示しているはずです。下北沢は、渋谷あたりから上祖師谷・千歳をぬけて甲州街道につながるルートにあったようです。
東京郊外地図

大正(1917年)頃の「東京郊外地圖」から下北沢とその周辺を拡大
雄文館版本大正6年訂正11版の東京郊外地図です(内容年代は大正6年)。
画像からは、いまだ下北沢という地名が読み取れます。森厳寺あたりの下北沢本村にあたる箇所です。
このほか、新代田駅あたりに代田、世田谷代田駅あたりに中原、下北沢駅(南口商店街)あたりに新屋敷と下北沢西山谷の記載があります(なぜか、代田5・6丁目あたりに大原の記載もあります)。また、梅ヶ丘2丁目あたりに田代とも記載されています。
なお、出典の地図は国際日本文化研究センタ−所蔵である。
東京郊外地図
大正(1913年)頃の「東京郊外地圖」から下北澤と周辺を拡大
博愛館版本大正2年3版の東京郊外地図です(内容年代は大正2年)。
画像はだいぶ地図らしくなってきており、下北沢村、赤堤村、若林村などお馴染みの地名のほか、松沢村の地名も確認できます。代田村は羽根木にあたる飛地に記載がみられ、現在の世田谷代田駅にあたる箇所には、中原と記されています。そのほか、大原、新屋敷、下北沢西山谷といったこれまで確認できなかった地名を読み取れます。また、北沢川に宮前橋という橋のランドマークがあります。神社や寺院だけでなく学校や牛乳店の記載もあります。
東京市及附近番地入地図
大正(1916年)頃の「東京市及附近番地入地圖」から世田ヶ谷村大字下北澤周辺を拡大
丸善好文館版本大正5年10月2日訂正8版の東京市付近番地入地図です(内容年代は大正5年)。
画像からは、世田谷村大字下北沢が読み取れ、当時はまだ下北沢という地名があったことが確認できます。
このほか、現在の羽根木は世田谷村字羽根木、字羽根木通、字飛羽根木と、世田谷村大字代田(現在の新代田駅付近も含む)に分かれていたことが判ります(羽根木という地名がようやく確認でき、代田橋の北側にも羽根木の文字が確認できます)。
世田谷代田駅あたりは代田でなく世田谷村字中原という記載になっています。
茶沢通りのあたりには字新屋敷、東北沢駅あたりには字大山谷、池ノ上駅あたりには字下山谷、代沢3丁目あたりには字下代田、庚申塚から小田急線の地蔵踏切をぬけ環七に続く道あたりには字下北沢西山谷、代沢4丁目あたりには字中下の記載が読み取れます。
代田という地名は、代田本村あたり(現在の若林のやや北側、代田3町目付近)に字代田の記載が読み取れます。
東京府全図・東京府里程図
大正(1916年)頃の「大正(1916年)頃の「東京府全圖、東京府里程圖」から下北沢・三軒茶屋周辺を拡大
雄文館版本大正5年6月20日第26版の東京府全図です(内容年代は大正5年)。
電車とバスの路線を示した地図です。山手線・中央線のほか、現在の京王線(京王電気軌道1913年開通)と田園都市線(玉川電気鉄道1907年開通)が描かれています。他の線は東急世田谷線が未開通ですのでバス路線を示しているはずです。下北沢は、渋谷あたりから上祖師谷・千歳をぬけて甲州街道につながるルートにあったようです。
東京郊外地図
大正(1917年)頃の「東京郊外地圖」から下北沢とその周辺を拡大
雄文館版本大正6年訂正11版の東京郊外地図です(内容年代は大正6年)。
画像からは、いまだ下北沢という地名が読み取れます。森厳寺あたりの下北沢本村にあたる箇所です。
このほか、新代田駅あたりに代田、世田谷代田駅あたりに中原、下北沢駅(南口商店街)あたりに新屋敷と下北沢西山谷の記載があります(なぜか、代田5・6丁目あたりに大原の記載もあります)。また、梅ヶ丘2丁目あたりに田代とも記載されています。
なお、出典の地図は国際日本文化研究センタ−所蔵である。
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06月14日: 古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その2
カテゴリー: 街「下北沢ウェブ【下北沢の古地図2】」明治・大正時代
投稿者: ohori
古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その2・1800年代の地図
東京近傍図中部

明治(1880年)頃の「東京近傍図・中部」から荏原郡の下北沢エリアと思われる部分を拡大
陸地測量部より明治20年に発行された地図です。内容年代としては明治13年測量ということです。
画像は白黒で中央付近に、荏原という大きな文字を確認できます。上部に赤堤、下部に馬引澤、中央下に若林、東に池尻、三宿、太子堂、西に、世田ヶ谷村の地名を読み取れるので、下北沢エリアも表示されているはずですが、この画像からは読み取りできません。
東京全図児玉又七

明治(1886年)頃の「東京全図・児玉又七」から荏原郡付近を拡大
地図は明治19年頃の東京全図となっています。西側の部分を拡大した画像になりますが全図を拡大ということもあり、おおまかな印象です。
画像からは、赤四角囲み箇所の地名から荏原郡付近の名称を読み取れます。左側から縦に、松原村、三宿村、上北沢、太子堂村、六けん茶や、池尻、世田ヶ谷、下馬引沢、池沢村、中馬引沢、弦巻村、馬引沢村、のざわ、碑文谷とあります。
なぜか、よく見つかる下北沢、代田、若林といった地名を探すことができませんでした。
改正東京府管轄測量全図

明治(1890年)頃の「改正東京府管轄測量全圖」から下北澤村とその周辺を拡大
地図は明治22年頃の東京府管轄の全図になっています。
画像からは、下北澤村、代々木村、代田村、松原村、上北澤村、駒場野、池尻村、若林村、赤堤村のほか、経堂在家村という地名を確認できます。経堂という記載があります。
このほか、世田ケ谷村、太子堂村、馬引澤といったよく見る地名も読み取れます。
ようやく、地図上に鉄道路線を示す線が描かれました。
なお、出典の地図は国際日本文化研究センタ−所蔵である。
東京近傍図中部
明治(1880年)頃の「東京近傍図・中部」から荏原郡の下北沢エリアと思われる部分を拡大
陸地測量部より明治20年に発行された地図です。内容年代としては明治13年測量ということです。
画像は白黒で中央付近に、荏原という大きな文字を確認できます。上部に赤堤、下部に馬引澤、中央下に若林、東に池尻、三宿、太子堂、西に、世田ヶ谷村の地名を読み取れるので、下北沢エリアも表示されているはずですが、この画像からは読み取りできません。
東京全図児玉又七
明治(1886年)頃の「東京全図・児玉又七」から荏原郡付近を拡大
地図は明治19年頃の東京全図となっています。西側の部分を拡大した画像になりますが全図を拡大ということもあり、おおまかな印象です。
画像からは、赤四角囲み箇所の地名から荏原郡付近の名称を読み取れます。左側から縦に、松原村、三宿村、上北沢、太子堂村、六けん茶や、池尻、世田ヶ谷、下馬引沢、池沢村、中馬引沢、弦巻村、馬引沢村、のざわ、碑文谷とあります。
なぜか、よく見つかる下北沢、代田、若林といった地名を探すことができませんでした。
改正東京府管轄測量全図
明治(1890年)頃の「改正東京府管轄測量全圖」から下北澤村とその周辺を拡大
地図は明治22年頃の東京府管轄の全図になっています。
画像からは、下北澤村、代々木村、代田村、松原村、上北澤村、駒場野、池尻村、若林村、赤堤村のほか、経堂在家村という地名を確認できます。経堂という記載があります。
このほか、世田ケ谷村、太子堂村、馬引澤といったよく見る地名も読み取れます。
ようやく、地図上に鉄道路線を示す線が描かれました。
なお、出典の地図は国際日本文化研究センタ−所蔵である。
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06月13日: 古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その1
カテゴリー: 街「下北沢ウェブ【下北沢の古地図2】」明治・大正時代
投稿者: ohori
古地図にみる世田谷区の下北沢(明治・大正の地図)その1・大日本沿海輿地全図(伊能図)
大日本沿海輿地全図(伊能図)

明治(1873年)頃の「大日本沿海輿地全図」から荏原郡にある下北澤村のあたりを拡大
いわゆる伊能図と呼ばれるものの中でもメジャーな地図のようです(壮大な地図で全部で214枚からなるようです)。他で伊能忠敬や伊能図について詳しく述べられていますので省略しますが、年表の関連リンクを示しておきます(伊能図関連年譜)。
完成したのは1821年頃ともいわれていますが、画像のものは副本から再版されたもののようです(明治期の模写図)。ということなんですが、記載された内容がどの時点を表しているのかというと、1800年から1816年頃ということになるようです。
地図上では、荏原郡の地名を道沿いに沢山確認できます(赤堤、松原、代田、下北澤、太子堂、若林、弦巻、池尻、三宿)。
甲州街道沿いに荏原郡・代田村とありますが、これは現在の羽根木辺りで当時は代田の飛地であったことが判ります。
また、面白いのは、幡ヶ谷村・笹塚、赤堤村・代田橋、中馬引沢村・三軒茶屋など、当時の村などの正式地名だけでなく、当時の呼称ともいうのかランドマーク的(塚・橋・茶屋)な箇所の名称も記載されているということです。他の古地図からは、笹塚や三軒茶屋という名称を探すのが難しいのですが、ここでは簡単に見つけることができます。御料所や知行所も記載をみつけることができます。
江戸時代の内容を示す地図ではありますが、明治期の模写として、このカテゴリーに分類しておきます。
なお、出典の地図は国立国会図書館所蔵である。
大日本沿海輿地全図(伊能図)
明治(1873年)頃の「大日本沿海輿地全図」から荏原郡にある下北澤村のあたりを拡大
いわゆる伊能図と呼ばれるものの中でもメジャーな地図のようです(壮大な地図で全部で214枚からなるようです)。他で伊能忠敬や伊能図について詳しく述べられていますので省略しますが、年表の関連リンクを示しておきます(伊能図関連年譜)。
完成したのは1821年頃ともいわれていますが、画像のものは副本から再版されたもののようです(明治期の模写図)。ということなんですが、記載された内容がどの時点を表しているのかというと、1800年から1816年頃ということになるようです。
地図上では、荏原郡の地名を道沿いに沢山確認できます(赤堤、松原、代田、下北澤、太子堂、若林、弦巻、池尻、三宿)。
甲州街道沿いに荏原郡・代田村とありますが、これは現在の羽根木辺りで当時は代田の飛地であったことが判ります。
また、面白いのは、幡ヶ谷村・笹塚、赤堤村・代田橋、中馬引沢村・三軒茶屋など、当時の村などの正式地名だけでなく、当時の呼称ともいうのかランドマーク的(塚・橋・茶屋)な箇所の名称も記載されているということです。他の古地図からは、笹塚や三軒茶屋という名称を探すのが難しいのですが、ここでは簡単に見つけることができます。御料所や知行所も記載をみつけることができます。
江戸時代の内容を示す地図ではありますが、明治期の模写として、このカテゴリーに分類しておきます。
なお、出典の地図は国立国会図書館所蔵である。
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