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古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その8・江戸天保年間・天保13年(1842年)頃

富士見十三興地全図





 江戸時代(天保年間)の「富士見十三州輿地之全図」から荏原郡を抜粋

 富士山を望見できる13カ国を描いた広域図。作成されたのは天保13年(1842年)頃。
 作成者は秋山永年墨仙、版元は衆星堂である。

 寸法は、約154cm × 約174cmの大版で、木版、多色刷りである(明治初期に印刷された覆刻図も数多く出回っているようだ)。

 富士山を望見できる上野、下野、常陸、武蔵、相模、上総、下総、安房の関東八州と、信濃、甲斐、駿河、伊豆、遠江の五國の計13ヶ國を画いた広域図である。
 内容は、國名・國境・郡名・郡境・河川・城・村名・街道・神社・仏閣・温泉・灯明台などが詳細に画かれている。

 松原、代田、下北沢、上北沢、赤堤、若林、池尻、三宿、太子堂など世田谷でもお馴染みの地名が描かれている。サイズも大きく、かつ、詳細に記載されている地図である。

 なお、出典の地図は信州大学附属図書館所蔵である。

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古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その7・江戸中期末期武蔵国絵図

江戸中期武蔵国絵図


 江戸中期頃の「武蔵野国道案内・大黒屋長右衛門」から荏原郡・世田谷町付近を抜粋

 武蔵国全体の道案内という絵図のようで、広範囲を描いているため全体像はマクロな地図です。したがって、ミクロなエリアである荏原郡エリアを拡大してもランドマークなど確認できずザックリと描画されている印象となってしまいます。

 地名としては、荏原郡・世田谷町と「町」という記述がみられます。この周辺の上北沢、赤堤、代田、松原、若林、下北沢のほか、馬引沢、池尻、碑文谷、弦巻、瀬田、上野毛といった名称を確認できます。

江戸末期武蔵国絵図


 江戸末期頃の「武蔵国全図・下野屋理兵衛」から荏原郡を抜粋

 こちらも武蔵国全図というマクロな全体像につき、荏原郡辺りを拡大してもランドマークなどは確認できません。

 地名としては、世田カヤという記述が見られます。このほか、マツバラ、代田、下北沢、アカツツミ、ワカバヤシ、池ジリ、太子ドウなどの名称を確認できます。

 マクロな描画の場合、当時、その土地(地名)がどの程度メジャーだったのかをうかがい知ることが出来ます。現在の笹塚などは古地図ではあまり確認することが出来ません。当時は三軒茶屋も呼称であるためか表記を見つけ難いです。意外なのは、松原、赤堤、若林、代田といった地名です。かなりの頻度で下北沢と同様に確認することが出来ます。

 なお、出典の地図は埼玉県立図書館所蔵である。

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古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その6・安政江戸絵図

武蔵国全図


 安政(1856年)頃の「武蔵国全図」から荏原郡・世田谷の周辺を抜粋

 元画像には欄外に社寺朱印高、名所の和歌、国名のいわれなどが書かれており、橋本玉蘭(五雲亭貞秀)という鳥瞰図を得意とした浮世絵師が山を描いたとされています。武蔵国全図の広範囲が詳細に記載されています。

 荏原郡・世田谷の周辺には、下北沢のほか、上北沢、代田、若林、赤堤、池尻、三宿、太子堂、馬引沢の地名を読み取ることができます。

安政江戸近郊図


 安政(1857年)頃の「安政江戸近郊図」から下北沢・代田のエリアを拡大

 江戸城を中心にした絵図で近郊図とされていますが、御城中心のエリアがより詳細に描画され、近郊にしたがってアバウトな感じになっていきます。

 ほかの絵図と比較するとザックリとした印象です。甲州街道のような幹線は描画されていますが、他の道は中途半端な印象です。地名としては、下北沢のほか、上豊沢、上北沢、赤堤、代田などが読み取られ、八幡などのランドマークも記されています。
 
 なお、出典の地図は埼玉県立図書館および国際日本文化研究センタ−所蔵である。

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古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その5・天保弘化江戸絵図

武蔵州輿地全図


 天保(1835年)以降頃の「武蔵州輿地全図」から荏原郡の周辺を抜粋

 江戸幕府は慶長10年(1605)、正保元年(1644)、元禄9年(1696)、天保6年(1835)の4度、諸大名に命じ国絵図を作成・提出させています。国絵図作成にあわせて、諸国の村名と石高を記した郷帳も編纂していおり、近世中期以降流布した国絵図は幕府作成の国絵図をもとに刊行、あるいは筆写されたものとされています。画像は天保6年以降のものと推測されます。

 マクロな描画ですが、北沢のほか、この周辺の地名として、代田、松原、上北沢、若林、太子堂、赤堤、池尻、三宿などを読み取ることができます。世田谷は、セ田カヤと記されており、下北沢も北沢と記されています。

東都郭外美知志留辺


 弘化(1847年)頃の「東都外郭みちしるべ」から世田谷区・下北沢付近を拡大

 江戸を中心に東を船橋、西を府中、南を羽田・神奈川、北を大宮・岩槻までの原野、社寺、名所、古跡を描いた仲田惟善著『武蔵一円絵図』文政8年(1825)刊の増補版ともみられており、元の画像は、かなりの広範囲を示す絵図になっています。

 方位がわかり難いので、ほぼ北が上を向くように修正しています。

 地名のほか、道標になるランドマークが書き込まれています。下北沢周辺の地名も、上目黒、池尻、三宿、太子堂、代田、若林、赤堤、松原、上北沢など多くを読み取ることができます。

 なお、出典の地図は埼玉県立図書館所蔵である。

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古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その4・東都近郊図

文化・東都近郊図


 文政(1825年)頃の「東都近郊図」から、荏原郡付近を抜粋

 詳細に画像を拡大できなかった為、文字が読みづらいですが、中央付近に四角二重線囲みで荏原郡の記載があります。この右上あたりに注目すると、三宿、池尻、若林、下北沢、代田、赤堤の地名を読み取ることができます。

 江戸近郊に遊覧する人々のために刊行された、いわば案内図のようなものみたいです。

弘化・東都近郊図


 弘化(1844年)頃の「東都近郊圖 全」から、世田谷区・下北沢エリアを拡大

 こちらの画像はより詳細に地名を読み取ることが可能です。四角囲みと、楕円状囲みとで地名が表記され、下北沢、代田、若林、松原、三宿、太子堂、池尻など多くの地名を確認できます。四角囲みは街道沿いの宿などを示すのか、上高井戸、下高井戸、三軒茶屋、世田谷上宿同下宿といった記載があります。また、代田橋にはハシがあった旨が読み取れます。

 江戸時代後期になると、江戸の町だけでなく、その近郊まで観光や遊覧を目的に出掛ける人々が増え、そのため、絵図にも、名所旧跡・神社仏閣・村名・新田名などが記載されています。また、毎月何日に市があるのかが記述されているように思われるので、江戸の周辺地域も発展していっていたこと、郊外の散策が盛んであったことが推測されます。

 なお、出典の地図は東京都立中央図書館および国際日本文化研究センタ−所蔵である。

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古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その3・天保国絵図武蔵国

天保国絵図 武蔵国


 天保(1838年)頃の「天保国絵図・武蔵国」から、下北沢エリアを拡大

 郡別に色分けされた楕円形の枠内には村名と石高が、四角で示された城下町には地名と城主の名前が記されています。下北沢周辺を拡大した部分は、灰色の楕円形で地名を確認でき、池尻、三宿、若林、下北沢、代田、松原、上北沢といった記述が読み取れます。灰色四角では、世田谷村という記述が読み取れます。

 全体像としては、現在の東京都と埼玉県である武蔵国の絵図(古地図)ですから、マクロな地図です。よって、各地域が詳細に描かれています。このため、陸地測量部が新たな地図作成のために、国絵図を模写したこともあり、明治維新後も実務に活用されていた古地図とのことです。

 なお、出典の画像は国立公文書館所蔵の地図である。

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古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その2・目黒筋御場絵図

文化・目黒筋御場絵図




 文化(1805年)頃の「目黒筋御場絵図」、武蔵国荏原郡から、下北沢エリアを拡大

 すでに、詳細に紹介済「古地図にみる世田谷区・下北沢(目黒御場絵図)」ですが、この絵図が最も精密に描写されているものと思います。地名としては、下北沢(下北澤)、太子堂、若林、代田、池尻、三宿などが確認できます。赤く示された当時のランドマークは神社や寺院です。北沢八幡、森厳寺、代田八幡、円乗院などが記されています。
 甲州街道、世田谷通り、淡島通り、鎌倉通りなども、この絵図中に確認でき、三軒茶屋は中馬引沢という地名だったことが判ります。よく見るとわきに三軒茶屋との記載もあり、当時より呼称されていたものと推測されます(2枚目の画像です)。

 「目黒筋」と呼ばれた馬込・世田谷・麻布・品川一帯に設定された鷹場の地図だそうですが、鷹狩の為に、これだけ緻密な地図が必要だったのか不思議に思うほどの正確さで描かれています。文化7年以降、幕府が地誌の編集資料として昌平坂学問所に集めた書籍の一部として残っていたものということですので、こういった目的で編集し直されたのかもしれません。

 当時、1798年(寛政10年) 近藤重蔵らが蝦夷地探検 、1800年(寛政12年)伊能忠敬が蝦夷地を測量、1808年(文化05年)間宮林蔵らが樺太を探検している時代ですから、測量技術はそれなりに発達していたものと思われますが、約200年前の古地図とは思えないですね。

 さらに、鷹狩について調べると領地管理などの機能を担っていたことが判りました。「目黒の鷹狩」に詳しい説明があります。

 なお、出典画像は国立国会図書館ウェブサイトから転載したものである。

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古地図にみる世田谷区・下北沢(江戸時代の絵図)その1・1800年頃

寛政・江戸近傍図


 寛政(1800年)頃の「江戸近傍図」、武蔵国荏原郡から、世田谷と下北沢のエリアを拡大

 三宿、池尻、下北沢、代田、松原、上北沢、経堂、赤堤、若林、太子堂といった地名が読み取れます(丸で囲まれている地名は、おそらく村の名前だろうと思います)。このほか、豪徳寺、淡島などの当時のランドマークが記されています。世田谷は、世田谷宿として街道沿いにあるように描かれています。

文化・江戸近郊御場絵図


 文化(1805年)頃の「江戸近郊御場絵図」、武蔵国荏原郡から、世田谷と下北沢のエリアを拡大

 地域毎の地名が色分けされているのが特徴的です。世田谷は緑色の丸に囲まれた文字で記載されています。池尻、太子堂、世田谷、若林、代田、松原、赤堤といった地名のほか、甲州街道が太い幹線として記されているのが読み取れます。おそらく、下北沢と記載されているはずの箇所ですが、ちょうど地図の切れ目となっており、北沢村という文字が確認できます。

 ちなみに、1800年頃には、伊能忠敬が蝦夷地を測量していたとされていますので、ある程度の正確な地図を作成できる技術があったのだろうと思われます。

 なお、出典の地図は筑波大学附属図書館、および国立公文書館の所蔵である。

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