下北沢 賃貸 大堀産業株式会社

大堀産業株式会社 は 東京都世田谷区内 小田急小田原線沿線 京王井の頭線沿線 にて、 賃貸アパート 賃貸マンション 貸家 賃貸事業用 貸店舗 賃貸駐車場 月極駐車場 売買マンション物件 売買戸建て物件 売買土地物件 売買事業用物件 を取り扱っております。下北沢駅 より 徒歩8分です。 ご来店、お待ちしております。
世田谷区の年末年始(12月28日〜1月4日)の救急診療

 休日等救急診療情報について

 年末年始は多くの医療機関が休診となりますが、世田谷区では初期救急診療所や当番医療機関とあわせ、午前9時から午後10時まで、比較的症状の軽い疾患を対象に、小児科、内科、および歯科に関する診療体制を整えていますとのこと(世田谷区ホームページより)。

 詳細は世田谷区HPへ http://www.city.setagaya.lg.jp/kurashi/104/139/550/d00136877.html

 下北沢エリアでは、梅ヶ丘駅のそばにある下記の場所が近いです。小さなお子様のいらっしゃる家庭には有難い話と思います。

・世田谷区医師会付属子ども初期救急診療所(小児科)

[電話]03-5301-0899
  [診療時間] 9時〜22時(受付は21時30分まで)
  [所在地]松原6-41-8(総合福祉センター隣)

 受診の際には、必ず健康保険証・医療証などをお持ちください。
 小児科診療(対象年齢は15歳以下、おおむね中学生まで)は、比較的症状の軽い内科的疾患を対象としていますが、判断が難しい場合は、事前に診療所へお電話ください。
 ・受付は診療終了時間の30分前までです。

 また、電話による医療相談もあるようです。

・医師等が対応する電話による医療相談
 [電話]03-3410-5111
 [受付時間]9時〜17時

 こちらも困った時には便利かもしれません。
冬休みのイベント・催事などの行事に関する情報

 もうすぐ、「冬休み」。世田谷区では、この冬休みの楽しいイベントなどの情報を「わくわくウィンタープラン2012−2013」という冊子にして配布しているようです。

 配布場所は、生涯学習・地域・学校連携課、各総合支所地域振興課、図書館、区民センター、出張所・まちづくりセンターだそうです。この情報は、世田谷区のホームページでも公開されており、pdfファイルで閲覧できるようになっています。

 「世田谷区 冬休み わくわくウィンタープラン
 上記のリンクよりアクセスできます。

 第1部は地域の催事を、第2部は施設案内が、それぞれ掲載されています。

 雪のすべり台、もちつき(餅搗き)、模擬店などの子供まつりの情報を収集できます。このほか、図書館の行事、スポーツイベントといった情報も公開されています。

世田谷観光マップ集

 世田谷区って、観光というイメージはあまりないように思いますが、世田谷区のホームページからは世田谷区の見所をまとめたページが公開されています。

 公園や緑道、文化施設や史跡、特色あるイベントやスポーツ施設などの様々な地域資源が点在しています。身近なところに、ひょっとして知らない場所を発見できるスポットがあるかもしれません。

 世田谷区のホームページで、区内の地域資源がまとめて紹介されています。なにか新しい発見があると嬉しいですね。

 リンク先 「世田谷区観光マップ集」(世田谷区ホームページ内の情報です)

 せたがや見どころマップ、せたがや文化マップ、せたがや地域風景資産マップ、公共的施設トイレ・ベンチマップ、せたがや花マップ、世田谷地域 健康マップ、下北沢周辺の文士旧居跡など、26項目に細分化された、色々な情報が公開されています。今更ですが、夏休みの自由研究などにも役立ちそうな気がします。

 ちなみに、「世田谷区の魅力」というページもあり、ここでは、全区観光マップがあり、地域をクリックすると、地図情報が表示されるようになっています。
 国土交通省のハザードマップポータルサイトから、あなたの町のハザードマップを見ることができます。

国土交通省のハザードマップポータルサイト」からアクセスできます。だれでも、どこからでも日本中のハザードマップをまるごと閲覧できるのが特長のようです。国土交通省 国土地理院 応用地理部が問い合わせ窓口となっています。

 たとえば、世田谷区の洪水ハザードマップを調べると上記のサイトから世田谷区のホームページの該当箇所へリンクされ情報公開ページにアクセスできます。ここから、マップデータのファイルをPDF形式で入手できます。「世田谷区 洪水ハザードマップ」から確認できます。

 また、世田谷区のホームページでも災害対策・安全安心のトップページが設置されており、ここで、地域の防災対策などが情報公開されています。「世田谷区 災害対策・安全安心のトップページ」よりアクセスできます。
 東京都の防災マップにて、防災拠点情報が地図検索できますのでリンクを貼っておきます。

東京都防災ホームページ」からアクセスできます。

 地震・気象情報や、道路・鉄道情報のほか、ライフラン(電気・ガス・水道・電話)情報が一つのサイトで確認できるので便利です。また、東京都の対策などのリンクも紹介されており有事に役立ちそうです。
 あなたのまちの地域危険度、我が家の対策、防災の知識など関連情報が網羅的にチェックできるので事前に、このようなサイトでどんな情報が公開されているのかを知っておくだけでも意義があるように思います。

 首都直下地震等による東京の被害想定、東京都帰宅困難者対策条例など、東京の被害想定(平成24年4月18日公表)について、東京都は東日本大震災を踏まえ、平成18年5月に公表した「首都直下地震による東京の被害想定」を全面的に見直すこととし、東京都防災会議の地震部会において検討を進めてきました。この結果を「首都直下地震等による東京の被害想定」報告書として、お知らせしています。「東京都 首都直下地震等による東京の被害想定 都の防災対策取組状況」から閲覧できます。
世田谷区の歴史・由来から、世田谷の起源を探る(その2)

 世田谷区の下北沢周辺に人が土着して集落を形成し一定の文化というか、その土地のスタイルらしきものを形作ったのは何時の頃の話なのでしょうか。ここでは、下北沢周辺と限定せず、やや広く世田谷と呼ばれる地域の起源に考察します。

 まず、「世田谷区の歴史と、世田谷の起源について(平安末期から鎌倉初期)その1」にて八幡神社の創建時期と世田谷区の歴史を対比するようにして、世田谷の起源を考察していますが、今回は、この考察をその前後の歴史から一歩深くみていきたいと思います。

 そもそも、地名そのものが発生する仕組みとして何がみられるでしょうか。地名という枠組みは、ひとつに、中央発信型・トップダウンによる枠組み(中央集権)。いまひとつに、地方累積型・ボトムアップによる枠組み(地方分権)があると思います。
 前者は、律令制による大宝律令・延喜式などによる東海道・武蔵国・荏原郡といった比較的に大きな分類で上部から下部へと割り当てられるような構造にあります。
 後者は、墾田永年私財化による荘園があり菅刈庄といった地域的なごく小さな分類で下部(底辺)から原始的に発生するような構造にあります。

 地名の起源として、両者が結合される時期に意味があるように思われます。すなわち、中央から国(くに)や郡(こおり)のレベルが定義されたとしても末端地域までは名称が定着していない。もしくは逆に、末端レベルの地域が名称を対外的に表示していたとしても、その上位の枠組みのどこに属するのか定着していない。こういった両者に繋がりを欠く時期においては、上下一貫した地域を表せる名称の起源とするには説得力を欠くと思われます。

 したがって、弥良期や古墳期といった時代については人々が土着して生活していたといえども、世田谷の起源を考える上ではひとまず除外しておくことにします。

 よって、『武蔵国・荏原郡・菅刈荘・世田谷郷』という上下一貫した地名をもって、世田谷の起源とし、この名称が何時頃に定着したのかに絞って考えていくこととします。

 そこで、何時の時代以降をみるかですが、武蔵国が東山道から東海道へ転属されたとされる771年以降から着目することとします(これ以前より現在の府中に国司がおかれ武蔵国があったことに異論はないといえるため)。
 つぎに、その下位である荏原郡と多磨郡という郡は927年の「延喜式」にて確認されており、さらに、その下位である勢多郷・菅刈庄という郷・庄は938年の「和名類聚抄」にて確認されています。
 よって、早くても、世田谷の起源はこの年代以降にみられると区切ることとします。

 この勢多郷と菅刈庄が世田谷の起源とされることに、ほぼ争いはなく、議論の実益は「いつ」の頃に「世田谷郷」に「変質」するのか、もしくは「発生」するのかに問題の所在があるといえそうです。

 以下、「【図解】世田谷の起源を探る」の画像をもとに考察します。

【図解】世田谷の起源を探る 地名の由来 その1

【図解】世田谷の起源を探る 地名の由来 その2

 ここで、地名の起源を探るにあたり問題を複雑化させるのは、938年の和名類聚抄以降、体系的に編纂された史料が、1830年の「新編武蔵風土記稿」まで待たなくてはいけないことにあります。
 したがって、画像も、平安時代から江戸時代の約1世紀というやや長い時間経過をみています。

 とはいうものの、鎌倉鶴岡八幡宮への寄進状にて1376年に吉良家の領地が「世田谷郷」にあることが文献で確認されていますので、図解画像の中で着目すべきは、938年から1376年の約400年の期間ということになります。

 では、いつの頃に「世田谷の起源」があるのでしょうか。

 まず、問題となるのは、この約400年の期間の歴史的背景です。平安末期から鎌倉初期にかけて荘園が発達しますが、この荘園期が地名の起源をみるにあたり複雑化させる要因となっています。
 すなわち、中央集権の律令制から武士誕生による武家社会に世の中が変質する過程において、それまで確認されていた多磨郡の「勢多郷」や荏原郡の「覚志郷」といった世田谷の起源とされる地名が、鎌倉期の史料からは、その名を確認できなくなってしまうことにあります。

 いわば、荘園期の頃は地名の起源を考えるにあたり、混沌期ともいえ、この前後の時代における地名の繋がりをみつける障害になっています。とくに、鎌倉幕府成立前後頃の地名を確認できる史料がほとんど無いように思われます。

 この障害を解く手がかりとして、ずっと年代が新しい史料となりますが、「古事類苑」があります。これは、明治12年に文部省が編纂開始し神宮司庁が引き継ぎ、約35年をかけて大正3年に完成した日本最大の百科史料事典です。
 その構成は、歴代の事柄や変遷を、平安初期から明治維新までの文献から、当該箇所を原文のまま採取・抽出し列挙する形態をとっており、出典文献の該当箇所を参照することなく確認できることに特徴があります。

 その中で、「和名抄にある郷名の中、勢多といえるは今の瀬田の地なるべし、この地は多磨郡を出て、荏原郡に屬する」とあり、多磨郡・勢多郷から世田谷領・瀬田村に繋がる流れが、新編武蔵風土記稿・八十九巻多磨郡総説に記されている旨が確認できます。

 また、「武蔵国荏原郡菅刈荘世田谷郷は、往古吉良家の領地なり」ともあり、世田谷郷が菅刈庄内にあったことが、「世田谷私記」に記されている旨が確認できます。

 なお、菅刈庄にある菅刈社(現在の稲荷森稲荷神社;千歳船橋駅そば桜丘付近)あたりが、庄名発祥地であり、その周囲に菅刈谷という地名や菅刈橋という橋もあった旨が新編武蔵風土記稿に記されていると、旧菅刈橋跡に世田谷区教育委員会による標示がたてられています。

 ここでようやく、『武蔵国・荏原郡・菅刈荘・世田谷郷』という地名に上下の繋がりが確認でき、その発祥が現在の世田谷区内にあったことが判ります。

 すなわち、世田谷の地域的な起源は、多磨郡勢多郷(のちの世田谷領瀬田村)や多磨郡狛江郷(のちの世田ヶ谷領喜多見村)といった多摩川や野川という水資源が豊富な地域にあるものと推定され、ここから、菅刈荘発祥とされる菅刈社の方面地域にむかって墾田が進み、吉良家の領地となる頃には、世田谷「郷」とされる基礎となりうる、世田谷らしき名称的な起源があったものと推定されます。

 はたして、世田谷郷という名称は、いつ頃に呼称されるようなったのでしょうか。「いつ」の頃に、勢多郷が「世田谷郷」に「変質」するのか、もしくは「発生」するのかという疑問はここまででは解決に至りません。

 ただ、世田谷八幡が1091年創建とされますので、この頃には、瀬田の谷地を意味する、「せたかい」という呼称があったのではないでしょうか。
 のちに、この「せたかい」が世田谷郷を名付ける際の基礎となったものと推測されます。

 そして、世田谷郷という名称は、吉良家が鎌倉公方より世田谷を拝領する際に「ネーミング」されたのではないかと思われます。なぜなら、これ以前に、武蔵国荏原郡菅刈荘世田谷郷という名を史料から確認することが難しいからです。

 なお、この時期は混沌期であることから体系だった史料が無いだけという解釈も可能ではあります。

 ちなみに、お隣の荏原郡菅刈荘目黒郷も、平安末期から鎌倉前期にかけての武蔵国豪族である畠山重忠から、その子孫とされる目黒重行への家譜の流れの中で何かきっかけがあり発生したかのように憶測されます。

 また、新編武蔵風土記稿の下北澤村の記載箇所には、「古くは喜多澤とも書きたるし、(中略)、菅刈庄に属し郷名の唱えを伝えず」と記るされており、菅刈庄に属する村であるものの、どの郷に属する村であるとは伝え聞いていないとしています。世田ヶ谷村の記載箇所でも、「世田ヶ谷村は菅刈庄なり」とのみ記されており、いずれの郷に属すかは触れられていません。

 同様に、世田ヶ谷領の記載箇所には、「世田ヶ谷という地名はいつの頃より起こりし事を知らず、吉良家譜によると鎌倉公方より治家が世田谷郷を賜りしより、(中略)、然るに土地の人が伝える所も古くは、このへんを総て菅刈庄世田ヶ谷郷とさけびせしと云う」と記されています。これは、吉良家が拝領した時にそう名付けられたとの意味ではないものの、吉良家が拝領した頃にはそう呼ばれていたと解釈できます。

 よって、世田谷八幡創建とされる1091年の頃には、勢多郷が「せたかい」に「変質」しており、これが後の世田谷郷という名称の基礎となる。その時期は、吉良治家が鎌倉公方足利基氏より武蔵国荏原郡世田谷を拝領したとされる1366年の頃に、その領地を「世田谷郷」と命名され(もしくは命名し)、原始的に「発生」したかのように表意されるようになったと推測されます。

 こう解釈すると、やや唐突に世田谷郷なる地名が、にわかに現われたことを説明できるのではないでしょうか。

 以上により、世田谷の起源は、おそらく11世紀頃に菅刈荘内に「せたかい」と呼称される地域があり、吉良家が世田谷を拝領した1366年頃に「世田谷郷」と「名付け」られ、『武蔵国・荏原郡・菅刈荘・世田谷郷』になったと思われます。あくまで、憶測の部分もありますが、文献での初見とされる1376年とも、ほぼ一致することから、そのように結論付けることとします。

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世田谷区の歴史・由来から、世田谷の起源を探る(その1)

 世田谷区の下北沢周辺にて人が土着して集落を形成し一定の文化というか、その土地のスタイルらしきものを形作ったのは何時の頃の話なのでしょうか。決定的なものではありませんが、世田谷区の八幡神社の歴史をひとつの手がかりに考えてみます。

世田谷区のできごと年表 その1

 そもそも、神社と呼ばれる寺院はどのように把握されているのか不明ではありますが、八幡神社と呼ばれる全国に4万社あまりある八幡様の総本宮が大分にあり、ここが八幡総本宮宇佐神宮になるようです。

 まず、その宇佐神宮ですが、神亀2年(725年)、聖武天皇の勅願により八幡神をお祀りされ創立されました。大分から全国各地に広まったのでしょうか。京都には石清水八幡宮が、貞観2年(860年)、宇佐神宮に参詣した折に神託を受け清和天皇の命により建立されました。関東には鎌倉の鶴岡八幡宮があります。こちらは、康平6年(1063年)、源頼義が氏神として京都の石清水八幡宮を由比ヶ浜辺にお祀りしたのが始まりといわれています(いわゆる三大八幡として「宇佐・石清水・鶴岡」が八幡神社の代表的なものにあげられていますが九州から関東に八幡が広まるのに三百年以上必要だったということでしょうか)。

 では、世田谷区にある神社の歴史はどうでしょう。

 勝利八幡神社(桜上水3丁目)が、平安時代・万寿3年(1026年)に京都府八幡市に鎮座する石清水八幡宮より勧請し創建したことに由来(鎌倉の鶴岡八幡よりも37年ほど前の平安末期に建立とされており世田谷の中でも最も古い部類の八幡神社であるとされているようです)。
 
 世田谷八幡宮(宮坂1丁目)が、源義家公が寛治5年(1091年)後三年の役の帰途、豪雨のため滞在した際、宇佐八幡宮の分霊を勧請し、土地の氏神として祀るよう教示したことに由来。

 府中八幡神社が、承久年間(1219-1222年)、石和五郎(武田)信光が鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮を石和の館に勧請して、国衙八幡宮と称したのが由来(世田谷付近ではないものの、平安時代の頃、武蔵国国府が府中にあったようなので併記してみた)。
 
 駒留八幡神社(上馬5丁目)が、徳治3年(1308年)当地領主であった北条左近太郎入道成願が八幡大神を勧請し社殿を造営したことに由来。

 北沢八幡神社(代沢3丁目)が、文明年間(1469-1487年)に世田谷北辺の守護神として当時の世田谷城主であった吉良家の勧請により創建されたことに由来。

 代田八幡神社(代田3丁目)が、天正19年(1591年)に世田谷城落城後の吉良氏家人七家によって世田谷八幡宮から勧請され創建されたことに由来。

 以上のように、ある年代に集中して八幡神社が建立されたわけではないようです。したがって、(すくなくとも)平安時代よりも更に以前より、この土地には何らかの集落が既にあったものと推測されます。
 しかし、一定の組織だった定めなどに従って(世田谷と、その周辺あたりが地名が由来する起源として)形成され始めたのが(平安末期から)鎌倉幕府成立前後の1000年代(11世紀)あたりからかと考えてもよいような気がします(とりあえず、そう結論づけておきます)。

世田谷のできごと年表 その2 

 なお、古文書(吉良治家寄進状)にて永和2年(1376年)、吉良治家が鎌倉鶴岡八幡宮に上弦巻半分の地を寄進した旨の記述が文献で初見される「世田谷」の地名のようです。

 さらに、同様に古文書(熊谷家文書)にて文永11年(1274年)、木田見郷の領地をめぐって熊谷氏との間に起こした訴訟一件文書が含まれており、これが世田谷区域内における土地領有関係を示す最も古い文書とされるようです。

 ただ、源氏が八幡神を氏神としていますので、八幡神社の歴史から考察してゆくと、そのように推測される結論もある意味当然なのかもしれません(これ以前の関東について時代を遡ってみないと判らないのかもしれません)。
 大化の改新以後に武蔵国府が成立した(あるいは古墳気期に武蔵国造の乱があったとされている説もあり)とされています。11世紀を中心に、その前後の年代の世田谷区の歴史と、世田谷の生い立ち・起源・由来については下記(続きを読む)の参考URLにてまとめた箇所を参照してください。

 最後に、荏原郡菅刈荘世田谷郷の生い立ちと由来から、世田谷の起源を考察することについては「世田谷区の歴史と、世田谷の起源について(平安末期から鎌倉初期)その2」にて、その前後の年代も交えて詳しく記述していますので、こちらも参照してください。

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世田谷区・下北沢 地図情報

 下北沢という地名を古い文献に探しておりましたが、なかなか閲覧できる機会もなく諦めていたところ意外にもデジタルライブラリーで公開されていることが判りました。それが、「新編武蔵風土記稿」と呼ばれるものです(これを古文書と呼ぶか否かについてはなんともいえませんが)。
 
 江戸幕府により編纂された地誌で、文化7年(1810年)から11年にかけて、武蔵国各村の明細帳と地誌御調書をもとに古文書・古記録類などを収録して、全265巻・付録1巻を編纂。全巻が完成したあとも訂正作業が行われ、幕府へは天保元年(1830年)に「新編武蔵風土記稿」として献上されました。

 出典画像は、明治17年(1884年)に内務省地理局が、幕府に献上された浄書稿本の翻刻版を『新編武藏風土記稿』として刊行したものです。
 また、文字ばかりでは退屈ですので同年代に作成された資料から絵図を抜き出してあわせて掲載しておきます。

 なお、画像は国立国会図書館ウェブサイトから転載したものです。

 まずは、武蔵国と下北澤の関係についてですが、東海道>武蔵国>荏原郡>世田谷領>下北澤村>小名下北澤本村といった上下構造になっています。

武蔵国の絵図(1878年 大日本国郡精図 東海道 武蔵國)
武蔵国の絵図(1878年 大日本国郡精図 東海道 武蔵國)

江戸と荏原郡の絵図(1886年 武蔵国並東京古今沿革図識)
江戸と荏原郡の絵図(1886年 武蔵国並東京古今沿革図識)

荏原郡の絵図(1893年 新撰東京府分図 荏原郡)
荏原郡の絵図(1893年 新撰東京府分図 荏原郡)

 地理的な位置関係も分かったところで、新編武蔵風土記稿にみられる絵図を見てみましょう(以下の画像です)。

新編武蔵風土記稿・荏原郡図(正保年中・1644年以後)
新編武蔵風土記稿・荏原郡図(正保年中・1644年以後)

新編武蔵風土記稿・荏原郡図(元禄年中・1688年以後)
新編武蔵風土記稿・荏原郡図(元禄年中・1688年以後)

 まず、上の二枚の画像を比較すると、下北沢という地名の記載が異なるのが判ります。正保(1644年)頃は「下喜多澤」と、元禄(1688年)頃は「下北澤」と記載されています。同じ下北沢を表すものなわけですが異なる漢字で表記されています。
 このほか、代田村、若林村、池尻村、三宿村、太子堂村などお馴染みの地名がみられます(松原村は正保版未記載で元禄版のみ記載されています)。
 新編武藏風土記稿の記載によれば、下北沢という表記の地名が定着したのは元禄以降ということのようです。

 さて、下北沢とその周辺地域の地名として新編武藏風土記稿からはどうような地名を確認できるでしょうか。順に画像をおってみます。

新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 若林村
新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 若林村

新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 代田村 其一
新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 代田村 其一

新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 代田村 其二
新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 代田村 其二

新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 代田村 其三
新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 代田村 其三

新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 下北澤村 其一
新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 下北澤村 其一

新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 下北澤村 其二
新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 下北澤村 其二

新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 下北澤村 其三
新編武蔵風土記稿 巻之五十二目録 荏原郡之十四 世田谷領 下北澤村 其三

 なお、出典画像は国立国会図書館ウェブサイト(近代デジタルライブラリー)から転載したものです。

 まず、若林村の地名(小名)には、若林本村、東山谷、西山谷の記載が確認できます。

 つぎに、代田村の地名(小名)には、代田本村、本屋敷、大下、中下、中筋、中原、大原、荻窪、花見堂、新原田の記載が確認できます。

 さらに、、下北沢村の地名(小名)には、大三谷、中三谷、下三谷、下北澤本村、薩摩屋舗、新屋舗の記載が確認できます。

 そして、松原村の地名(小名)には、西山谷、牟田、中原通、向原通、松原宿の記載が確認できます。

 以上のように、野原が多かったのでしょう。山や谷を想わせる三谷とか山谷という地名、原のつく地名が多いです。筋や通とつく地名は道沿いに、屋敷・屋舗・堂には何か建物があったことが想像できます。
 田畑をイメージすることのできる地名が代田、新原田、牟田と少ないのは開墾に苦労する土地であったことを窺わせます。

 代田村では、天正18年(1590年)頃から開墾し、寛永初年(1624年)になっても代田七人衆と呼ばれる七家(清水・秋元・斎田・斉田・柳下・山田・大場)と寺院一箇所(1625年建立の円乗院か)のみだった旨の記述もあり、他の土地では更に開墾が進んでいなかったのかもしれません。

 若林村では、正保(1644年)および元禄(1688年)の頃より、松原村では、元禄(1688年)の頃より、開墾されたという旨の記述からも、この2村よりも代田のほうが開墾が進んでいた可能性もあります(また、代田の小名がより多いことも広範囲に開墾が進んでいたことを推測させます)。

 また、下北沢村では、1590年小田原城落城とともに吉良氏が所領没収(世田谷城も廃城)され、村の開発は、この吉良旧家臣である膳場将監が落城後に土着し、ただ原野だったところを開墾し、ついに一村落を成したとの旨の記述がみられることからも、代田村と、ほぼ同年代に開墾され始めたものと思われます。

 ただ、下北沢村は北沢八幡勧請が文明年間(1469-87年?)頃と推定(慶安3年・1650年には他書物で既確認)され、森厳寺建立が慶長13年(1608年)、松平薩摩守抱屋敷が慶長11年(1609年)にあったとされていますので、寺院一箇所のみだったとされる代田村よりも開発が進んでいたとも考えられます。

 このあたりは諸説ありますので定かではありませんが、おおむね、天正18年(1590年)頃以降から、下北沢村、代田村、若林村、松原村の開発が盛んになったものと推測されます(むろん、このはるか以前より当時の土地には人が住んでいて、信仰の対象になるような祠などがあり、こういった集落の起源ともいえるものが既にあったたはずだといった見解は異論がないです)。

 実際に、土地に人が根付いて集落が形成されはじめた起源は何時かという問題は学者など有識者によって定義されているとは思うのですが、世田谷区の場合はどのくらいの頃が起源といわれているのかは興味があります。

 世田谷に人が住み始めたのは先土器(後記旧石器時代)といわれ3万年も前だそうです。遺跡の存在によって確認されていることだと思うのですが、この頃は、いまだ(土器も作られておらず)食料を求めて一定範囲を移動して暮らしていたであろうと言われています。

 土地に人が定着したのは、(縄文時代)・弥生時代・古墳時代とされ、世田谷区史跡・遺跡番号68・円乗院(代田2丁目)に[縄文早期][縄文中期][弥生後記][古墳期]の、世田谷区史跡・遺跡番号82・下山谷(北沢3丁目)に[縄文中期]の、世田谷区史跡・遺跡番号162下北沢本村(代沢2・3丁目)に[弥生期]の遺跡が、それぞれ確認されているようです。
 
 とはいうものの、(世田谷と、その周辺に)一定の組織だった集落が形成されるようになったのは、(はやくとも大化の改新以後)、おそらく、平安末期頃あるいは鎌倉時代になる頃であろうと思われます(年代にして1000年前後の頃と思われますが、詳しくは別の機会に考察します)。

 ちなみに、「世田谷」の地名の初見は、600年以上前にさかのぼる永和2年(1376年)、吉良治家が鎌倉鶴岡八幡宮に上弦巻半分の地を寄進した古文書(吉良治家寄進状)といわれています。このほか、永享11年(1439年)大野七郎息女ひろ.セタカエの太夫僧都の門弟引担那等5ヶ所を10ヵ年の期限で熊野郡那智宿坊竜寿院に売却するとあり,「セタカエ」が見られるとされています。
 また、天文2年(1533年)3月31日付の熊野那智大社文書で、大社を詣でた4名のうちの1人の記載に、「せたかい住 喜村彦五郎」として、「せたかい」が見られるとされており、文献にて確認されているようです。
 また、武蔵国木田見郷(現世田谷区喜多見一帯)が鎌倉時代より江戸氏の領地であったことは、「熊谷家文書」などの文献により明らかになっています。「関東一の大福長者」と呼ばれた江戸太郎重長の次男・江戸武重(氏重)は木田見郷をその本拠とし、木田見次郎武重と名乗ったと伝えられています。 有名な熊谷(くまがい)直実(なおざね)の家に代々伝わる「熊谷家文書」には、この木田見武重の子孫たちが木田見郷の領地をめぐって熊谷氏との間に起こした訴訟一件文書が含まれています。その初見は文永11年(1274年)のものであり、これが世田谷区域内における土地領有関係を示す最も古い文書とされているようです。

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世田谷区・下北沢 地図情報

 下北沢という地名を古い地図に探しておりましたが、古地図は何を目的に何時、製作されたものか明らかでないものが少なくないので地図探しに難儀していたのですが、ようやく見つけることができました。それが以下の画像で、「目黒筋御場絵図」と呼ばれるものです。

 なお、使用した画像は国立国会図書館ウェブサイトから転載したものである。

目黒筋御場絵図(めぐろすじごじょうえず)・全体像の縮小版
目黒筋御場絵図 全体像の縮小版

 上記の画像は、目黒筋御場絵図(めぐろすじごじょうえず)と呼ばれている古地図(古絵図)です。1805年(文化2年)作成された江戸近郊に設定された幕府の御鷹場の地図で、文化7年以降に幕府が地誌の編集資料として昌平坂学問所に集めた書籍に捺された「編修地志備用典籍」の印があるものです。
 絵図の内容は「目黒筋」と呼ばれた馬込・世田谷・麻布・品川一帯に設定された鷹場の地図が描かれています。地図中の村名は、世田谷領は白に色分けされた楕円の中に書かれています。その他、御膳所・街道・寺社・大名屋敷等も記載されています。この全体像を縮小し、方位を見やすいよう北を上にしています。

 このように、時期が文化2年(1805年)と特定され、目的が幕府の御鷹場を示すものとして製作されたと明らかになっています。時期と目的がハッキリしていない地図はミスリードする可能性があるので、これが特定されているのは大変に貴重だといえます。
 更に年代も約200年前と古い地図なのに文字を読み取れるし色彩も綺麗です。特筆すべきは、描画の緻密さと精巧さです。後述しますが、現代の地図と比較・検証しても、その正確さに驚くほどです。この古地図だけでも現代の世田谷を探索することも可能なほどです(当時の鷹狩は、幕府の威光を示すことや、領地の巡視などの管理といった副次目的も兼ねていて大掛かりな規模で行われていたようです)。

 また、古地図は江戸城周囲や現在の山手線内側の範囲が記述されたものが多く、東京近郊というのか世田谷区辺りまで網羅したものを見つけるのは困難で(当時の世田谷区は近郊というか、都会とはいえない場所だったので)、その意味でも価値があるものといえます。なお、原図のサイズは畳6帖以上のサイズで大きなものです。

 この古地図(古絵図)を確認するため拡大したものが以下の二枚です。

 ちなみに、下の二枚の画像中の右上にある緑色の林野のように描かれている箇所が駒場野の鷹場です。

目黒筋御場絵図・世田谷区の世田谷と下北沢の周辺を拡大
目黒筋御場絵図 世田谷区の世田谷と下北沢のエリアを拡大

目黒筋御場絵図・下北沢とその周辺駅のエリアを拡大
目黒筋御場絵図・下北沢とその周辺駅(世田谷代田と新代田)のエリアを拡大

 上記の2枚の画像からは、下北沢(下北澤)のほか、代田、若林、池尻、三宿、太子堂、世田谷、弦巻、赤堤、松原、代田橋といった現在の地名が、そのまま確認できます。
 これだけでも、かなり緻密な感じがしますが、現代の地図にある地名や神社を当てはめてみると、その精巧さにビックリします。

目黒筋御場絵図・現代の地名などを記述
目黒筋御場絵図・現代の地名などを記述

 上記の画像は、目黒筋御場絵図に、現代の地名や存在する神社や寺、通りの名称を書き込んでみた画像です。かなり正確に描画されていることが判ると思います。鷹場に趣くためには、これほど詳細な地図が必要だったということなのでしょうか。あまりの緻密さに驚きます。更に、画像には、環七を黄緑色の線で、下北沢駅を二重丸で、その隣接駅(世田谷代田、新代田、東北沢、池ノ上)を星で示しています。古地図上のおおまかな位置にプロットしてから線でつないだわけですが尺度が歪んだ箇所もなく、現在の地図に重ねることも可能なのではと思うほどです。

 下北沢の周辺では、北沢八幡や森厳寺、淡島通り、鎌倉通り、茶沢通りなどが確認できます。これ以外にも三軒茶屋という呼称が当時より存在していたことも判ります(地名としては中馬引沢となっていますが古地図をよく見ると道のわきに注釈のように記載されています)。

 そのほか、代田の周辺では、代田八幡と円乗院、北沢用水(北沢川緑道)、後の環七の一部となる道、ダイタラ坊の足跡ともいわれる池が、豪徳寺周辺の神社や寺院も確認できます。
 また、道としては、世田谷通り、玉川通り、瀧坂道、菅原天神通り、松原大山通り、甲州街道、玉川上水(緑道)が確認できます。

 さらに、下北沢周辺に着目すれば、将来の南口商店街、あづま通り、一番街本通り、池ノ上北口商店街も確認でき、代沢三叉路や、庚申堂までも確認することが可能です。下北沢の南口商店街に何気なくある庚申堂は約200年前にも実在していたのではと思わせます。この庚申堂から小田急線の通称、地蔵踏み切りを渡り、環七に続く道も約200年前から存在していた道であることが確認できます。

 また、興味深いのは、代田という地名の由来とも言われる「ダイタラ坊」の窪地池(現在の守山小学校の裏手)までも古地図上に描画されていると思われることです(柳田國男全集に収められている『ダイタラ坊の足跡』に、その由来が書かれています)。
 宮崎駿さんの映画『もののけ姫』に登場する、でぃだらぼっち、で再び有名になりましたが、羽根木公園は昔、根津山と呼ばれ、その前には六郎次郎治という刀鍛冶がおり六郎次山とも呼ばれていました。ここが、映画の中のタタラ場であり、笹塚辺りには首塚があったとの説もあり、ここが映画のシシ神の首を返す場面というように、このエリアをモチーフにしていたのでは思われるような内容が古地図をつうじて連想されます。

 こういったことを調べるのは結構、面白いですね。もっと、より深く考察してみたいのですが現時点では資料もなくここまでです。約200年前の地図からも現在の場所を特定できるとはロマンのある話です。

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 3月11日に発生した東日本大震災に関連する世田谷区の対応や、義援金の受付など被災地への対応、関係機関からの情報提供等が世田谷区のホームページで情報公開されています。

 普段は気にしてなかった情報が、今は必要となってきています。どこを見れば良いのか判らないといった部分もありますが、まずは世田谷区が公開している情報を確認しておきましょう。計画停電などの情報も日々、更新されています。シンプルなので比較的に必要な情報のみを確認しやすいサイトだと思います。

 情報は随時、更新されており、項目別に以下のリンクから閲覧できます。

 また、「災害・防犯情報メール配信サービス」や災害関連情報を発信する「ツイッター」も運用されています。

 地方に親御さんがいらっしゃって、東京にお子さんがいらっしゃるケースでは、親御さんから東京の様子などを知りたいといった声もあります。情報収集にも活用できると思いますので、リンクを貼っておきます。

東日本大震災に関連する世田谷区の情報 http://www.city.setagaya.tokyo.jp/020/d00033198.html

災害・防犯情報メール配信サービス http://www.city.setagaya.tokyo.jp/030/d00013076.html

災害関連情報をお知らせするツイッター http://www.city.setagaya.tokyo.jp/020/d00033299.html

世田谷全図 区内の施設や避難場所、鉄道、バス路線等を掲載した地図の配布対象者や窓口 http://www.city.setagaya.tokyo.jp/020/d00027874.html

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